日記をかける条件について

<私が日記を書こうとしたきっかけ>

 一時期、私は自己啓発のためにいろいろな本を読み漁っていた。その中でひときわ印象に残ったのが「7つの習慣」であった。この本はよく生きる方法を私に教えてくれた。その方法の一つに「自分ルールー憲法ーをつくり、しっかりと守る」というものがある。自分がどんな人間でいたいかを決め、それを実現するために守らなければいけないルールを定めるというこの教えは、私の生き方に大きな影響を与えた。7つの習慣の中では、この教えを実行に移すには「振り返ることが必要である」ことも説かれていた。私はこの教えにのっとって、日記を書くことを決めた。

 しかし、この試みは長くは続かなかった。最初の1か月は禁欲日数をカウントする目的も兼ねていたため継続することができた。ところが、禁欲が習慣になってくるとカウントしなくても維持できるようになったため、日記を書く重要性が今までに比べて小さくなっていった。そのため、日記を書く頻度も大きく落ちてしまった。今自分の日記を読み返してみたところ、以前に書かれたのはなんと20日前だったのである。もはや習慣化しているとは程遠い。まさに7つの習慣の教えを実行するつもりであったが、「つもり」にとどまってしまった凡人の典型的な末路であるといえよう。

 このような状況に危機感を覚えた私は、日記を再び書き始め、習慣化させようと思った。何より7つの習慣に書かれたことを実践し、我物にしたいからである。「論語学びの論語知らず」という言葉があるように、実践の伴わない学びは学びとは言えない。本の内容を自分のものにし、良い人生に近づけるためにも振り返りを実践していこうと考えた。

 私が日記書きを再開したいと思ったのは、自分の思考を整理する時間はとても楽しいものだったということを思い出したからでもある。後述するように、日記は自分の考えていることを言語化することによって、あいまいだった考えを整理することを可能にする。実際に大学生活の漠然とした不安を抱いていた私は、日記を書くことによってそれを解決したことがある。このわからないことがわかる快感は非常に痛快なものであり、楽しかった。私はこの感覚をもう一度味わおうと思い、日記を書き始めようと思い至った。

 日記を書きたい気持ちはあるが、かけるような環境を作らないと前回の二の舞になってしまう。そのため、なぜ続けられなかったのか?という問いに対して明確に答えられるような分析を行わなけてればならない。本記事では日記の再開の仕方という例にとって、「どうすれば習慣化できるか」について考えていこうと思う。

<そもそもなぜ日記でないといけないのか?>

 なぜ日記でないといけないのか?これは習慣化するうえで避けては通れない問いである。そもそもの話、習慣化するということは明確なメリットがないとまず不可能である。日記を書くこと以上に目的にかなった方法があるのなら、わざわざ日記書きをとる必要がないのは明白である。そのため、日記を書く動機についてさらに掘り下げておく必要がある。

 日記を書く主な理由は自分の思考を整理できるということである。最初の方でも述べたように、自分の思考は文章にすることで整理できる。例えば、あなたが学校での友人関係について漠然とした不安を抱いているとしよう。あなたはなんとなく友達作りができるかどうかに対して不安を抱いている。この気持ちを詳しく言語化してみるとどうなるだろうか。ただ「不安だ」でとどめるのではなく、「何が」あなたに対し「どのように」働きかけることで不安を生じさせるのかを書いてみる。すると不安を抱く理由が見えてくる。友人関係がうまくいかないと、仲間から見放されてしまう。この事実はあなたに孤独感を与える。孤独感はあなたに、「誰も仲間がいない、頼ることができない」と考えさせるように仕向ける。そして自信のないあなたは不安を抱く。不安の正体は「孤独感」とそれに由来する「自信のなさ」であることがわかる。そのため、この不安を解決するには「頼らなくても生きることができる」という自信をつけるとよい、という一種の回答を得ることができる。このように、日記による言語化は不安と飯田漠然とした感情を明らかにし、さらにはその感情との付き合い方までも教えてくれる。言語化はあなたの生活にゆとりを持たせる最良の手段なのである。

 日記はまた、あなたに自信を与えてくれる。日記に今日できたことをつづるだけで、あなたは「やればできる」という感情を抱く。前の記事で書いたように、自信は成功体験を重ねることで身に着けられる。成功体験を毎日つづったとしても、それが2、3年積み重なれば山となる。この状態になれば「私にできること多い」ということが目に見えてわかるーすぐに自信を持つことができるーようになる。日記はあなたの不安を解消する助けとなる「自信」も与えてくれるのである。

 日記を習慣化することは「自分の目標を再確認する機会を増やす」ことでもある。私が日記を再開しようと思ったきっかけは「自分ルールにのっとった生活をしているか」という振り返りをしようと思ったことである。日記の中で毎日目標やルールを書くことで、自分の記憶にとどめられるようにすることができる。もし、日記を書かないのであれば、私たちは自分の目標ですら3日で忘れてしまうのだろう。目標に向かって動くというエネルギーの使う行動をわざわざとりたくないからである。日記はこの惰性に向かった動きに対して軌道修正をかけてくれる。ゆえに私たちは日記を書くことで「目標に向かって生きる」という、充実した生を謳歌することができるのである。

<こんなにもメリットがあるのにどうしてできなかったのでしょう?>

 私が書いていて疑問に思ったのは、ここまで明確なメリットがあるのになぜ続けられなかったのかということである。自信を持てる、思考を整理できる、人生を充実させられる、というメリットは非常に大きいものであることは説明したとおりである。にもかかわらず、私は続けることができなかった。なぜだろうか?このパートでは習慣化しようとして失敗した理由について考えていきたいと思う。

 習慣化できない理由の一つが「やらなくても生きていけるから」である。私たちは日々の仕事さえこなしていれば最低限度の生活の保障を受けることができる。そのため、日記など直接生活にかかわらないことを習慣化しなくても「生きること」自体は可能である。前の記事でも述べたように「生死にかかわるか否か」ということは本気になれるかどうかを左右する大きな要因である。例えば、自転車で20キロ離れた場所へと遠征したとき、あなたは日が落ちるまで帰らなければいけないため、なんとかして帰ろうと努力する。日が落ちてしまうと「帰れなくなるのではないか」という生死に関する不安がよぎる。そのため、生きようという本能が働き、普段では考えられないような力を出すことができる。このように生死にかかわる状況か否かということは本気になれるかに大きく影響を与える。私が日記を続けられなかったのは、この生死に関する本気度が足りなかったからである。

 日記を書けなかった理由として、生理的な欲急に負けてしまいがちだったということである。私は禁欲生活を得て、食欲と性欲をコントロールすることができるようになった。しかし、睡眠欲だけはどうしても制御できなかった。私は日記書きを一日を振り返られる時間である寝る前に行っていた。そのため、強烈な睡眠欲に負けてしまい、日記を書くことを放棄してしまうことも多かった。また、寝ることは我慢できたとしても熟考できるほどの体力が残っていない場合もあった。そのため、いかにして集中した状態で日記を書けるようにするべきかを考える必要があると思われた。

 人間は飽きてしまうとすぐにやめようとする傾向がある。例えば、作業中心のゲームは毎回やることが決まっているため、単調になりやすい。そのため、刺激がないことに退屈してしまい、放り出してしまうことが多い。私の日記もそうだった。私はできたこと、不安なこと、目標の3つに対してのチェックをずっと行ってきた。私はこれをテンプレートのように扱い、惰性で書くことがいつしか多くなってしまった。刺激がなくなってしまうと空きやすくなる。私は日記を書くことに飽きてしまい、放り出そうと思ってしまったのである。

<じゃあどうすれば続けられるの?>

 ここまでなぜ続けられなかったのかという原因について考えてきた。本気になれない、欲急に負ける、飽きるということが根本的な原因である。それではこれらの問題を解決し、日記を続けられるようにはどうすればよいのだろうか?ここでは日記を継続するために気を付けるべきことについて考えていこうと思う。

 まず、本気になれないという問題について考えてみよう。本気になれないのは生死に関係しないからである。確かに日記を書かないから死んでしまうということはない。しかし、精神的には死んだのと同然になることは十分あり得る。実際に私は日記を書かなくなってから虚無感を抱くことが多くなった。日記は言語化することで思考を整理することができる。そのため、日記を書かなくなった私は漠然とした問題に対して明確な解を持つことができなくなってしまった。問題に対してぼーっと考えることが多くなり、何の生産性もない時間を過ごすことが増えてしまった。これは充実した生を謳歌しているといえるだろうか?生産性のない時間を過ごすということは、自分の生きたいように生きる人生とは大きくかけ離れている。ならばこれは精神的な死であるといえないだろうか?精神的な死も立派な死であるといえる。そのため思考を整理しないということは広義的に生死を左右することでもあるといえる。したがって、精神的な死を恐れることで本気に荒れると考えられる。

 それでは、欲急について考えてみよう。私は性と食の欲求を克服してきた。これを達成するために、私は何かに没頭するようにしていた。集中すると周りのものが見えなくなる。入試本番の際にほかの受験生のことを気にしないで、ただただ問題と向き合っていたことを思い出すといいだろう。このとき、あなたは空腹感を覚えただろうか?ほとんどの場合、受かりたいという一心でひたすら問題を解いていたはずだ。あなたたちは禁欲の方法を知っているのである。ならばこれを日記についても当てはめるといいのである。日記に集中できるような状況を整えるといいのだから、書く前にはまっていることをやってみるといいと考える。私の場合、集中しやすいのはイラストを描くときや、文章を書く時である。そのため、日記を書く前にこれらのアクションを選択することで集中した状態を維持して日記を書くことができるようになる。集中を維持できる方法を考えることが重要である。

 惰性になってしまう問題についてはどう対処すればよいのだろうか?振り返りを行うという日記の目的を考えると、書く内容はどうしてもテンプレートになってしまう。飽きることがないようにするには、どこかで変化をつけるとよい。この場合、どこに変化をつければよいのだろうか?表現の形式を変えればいいと私は思う。知らない単語をあえて使ってみたり、外国語で書いてみたり、このような小さい変化があるだけで飽きる状態を防ぐことができる。続けるうえでは、小さな変化でも与えることが大事である。

<まとめ>

 以上のように少しの工夫を施すことによって継続することができる。よく継続にはやる気が重要だといわれることがある。しかし、これは根源的な原因を無視している。実際は欲求や惰性といった、「やる気」があるかどうかよりも具体的で細かい要因がかかわっている。ところがそれを無視し、「やる気をつけなきゃ」という結論に至ってしまうといつまでたっても続けることはできない。やる気はそれを出すことのできる状況を作ればすぐに解決する問題である。精神論に帰結するのではなく、さらに根源的な原因は何かということについて考えることが、継続するうえで重要であると考える。

 日記はあなたの人生を充実させるパートナーである。私自身、このパートナーと別れてから「生きがい」を失ったような感覚を抱いている。それくらい人生の質に大きな影響を持っているのである。書くことは、QOLを爆上げする最も簡単なツールである。ぜひ、ここで述べた方法で継続し、人生を充実したものにさせてほしい。