ぬいぐるみ

<ぬいぐるみと私>

 もう少しで成人になる年齢ではあるが、最近ぬいぐるみを買ってしまった。写真映えなどを考慮して購入したのだが、買ってからはそれを手元に置くことに快感を覚えるようになった。どうやら私がぬいぐるみを買ったのは、単純に写真に収めたいという翼級以上の感情駆られたからなのかもしれない。

 では、その駆動力となった感情とはどのようなものだのだろうか。また、どのような人がぬいぐるみを買いうると考えられるのだろうか。以上の疑問についてこの記事の中で考察を深めていきたい。

<なぜぬいぐるみを好むのか?>

 子供のころにぬいぐるみを買ってもらった経験のある人は多いだろう。ぬいぐるみをもらったときに私たちは何を感じたであろうか。おそらく、かわいらしい、癒されるという答える人が多いことだろう。この項では、なぜ癒されるのかについて説明していきたい。

 私たちが「癒される」という感想を漏らすのは、犬や猫、ハムスターなどの小動物に対するのがほとんどである。つまり、私たちは「かわいらしい:」ものに対して「癒される」という感想を抱く。したがって、なぜ癒されるのかという問いに対しては、なぜ「かわいい」と思うのかという観点から考える必要がある。

 私たちが「かわいい」という感想を抱くのは、ベビースキーマに属している特徴をもつものに対してである。ベビースキーマとは「胴より大きな頭」や「丸みを帯びたフォルム」のような赤ん坊にみられる特徴のことを言う。ぬいぐるみは綿からできているため、おのずと丸っこい形状になりやすい。また、ぬいぐるみは赤ん坊と同じように基本的に私たちよりもはるかに小さい。そのため、ぬいぐるみはベビースキーマの原則に従っており、私たちから「かわいらしい」という印象を抱かれやすいといえる。

<ぬいぐるみの効果は何か?>

 ここまで、ぬいぐるみがなぜ「かわいい」のかという、ぬいぐるみの最も基本的な部分について考察してきた。しかし、これだけでは私たちがぬいぐるみを買う理由を説明することはできない。かわいらしいものがなぜ必要とされているのかという所まで議論を深めなければならない。そこでこの項ではぬいぐるみが私たちの生活にどのような影響を与えるかについて考察する。

 ぬいぐるみは私たちの生活に彩を与える。すなわち、一種のインテリアである。例えば、何も飾っていないタンス上はどこかもの寂しい印象がある。そのため、私たちは絵画や装飾品などをそこに置くことで空白を埋めようとする。ぬいぐるみもまさにこれらと同じ役割を果たすことができる。つまり、ぬいぐるみには空間を埋めるという効果がある。

 ここで、「物寂しい」というワードが出てきた。実はこのワードこそがぬいぐるみの効果を語るうえで非常に重要なカギとなっている。ぬいぐるみは先述したように、「かわいらしい」特徴を多く兼ね備えている。また、私たちは「愛しいもの」をみて寂しさを和らげようとする傾向がある。例えば、一人暮らしをしている学生は寂しさを和らげようとするために、多かれ少なかれ愛情を抱いている友人や恋人、家族と電話越しで話そうとする。ぬいぐるみはかわいらしい特徴を多く持つため、おのずと愛情を抱きやすい。ゆえに、私たちの物寂しさを解消してくれるという効果があるといえよう。

<ぬいぐるみは誰が買うべきか?ーかりそめなりー>

 ここまでぬいぐるみの効果について考察してきた。ぬいぐるみはかわいらしい形状をもつインテリアであるため、私たちの部屋だけでなく、心の物寂しさも解消することができる。これをふまえて、ぬいぐるみはどのような人が購入するのかについて考察していく。 

 ぬいぐるみの恩恵を最も受けることができるのは一人暮らしをしている学生及び経験の浅い社会人であろう。彼らの多くは慣れ親しんだ環境から見慣れない土地で生活するため、心のどこかに物寂しさを抱いていることが多い。また、友人を作ろうにしても初対面の人が多いため。なかなか作るのにも勇気がいる。特に対面で人と会うことが非常に難しい今の状況ではなおさらである。そこでぬいぐるみが光る。ぬいぐるみは買ってしまえば簡単に持ち主の寂しさを解消してくれる。そのため。早く寂しい気持ちを取り除きたいと考える一人暮らしの人たちのニーズにかなっているといえる。

 こうして考えると、ぬいぐるみはAVと同じ側面を持っていると考えられる。AVは女性にもてない男にあたかも彼女がいるかのような錯覚を引き起こさせることによって、購入者のニーズを見たしている。これは「疑似的な愛情」を提供するという点でぬおぐるみと共通している。もちろん、全年齢であるか、人間であるかという違いは存在する。しかし、見方を変えればぬいぐるみはAVなのである。これをどうとらえるかについては取り上げない。しかし、確実に言えることは、やがて現実に帰らねばならぬということをユーザーがわきまえていないと、悲惨なことになるということである。

<まとめ>

 ぬいぐるみはかわいらしい特徴を備えたインテリアとして、物寂しさを抱きがちな人のニーズにこたえた商品である。一方で、ぬいぐるみは「かりそめの愛情」を提供しているに過ぎないともいえる。ぬいぐるみを購入するのは個人の自由である。しかし、いつかは「寂しさを紛らわせるためのぬいぐるみ」から卒業せねばならないと自問自答することが、健全な生活を送るうえでは重要であると考える。

ツイッターを私なりに語るだけ

<ツイ廃になりかけてしまう私>

 2か月前、私はようやくTwitterを始めることにした。いかにして短いも字数制限の中で自分の考えを分かりやすく伝えるとよいのかについて、つぶやくたびに真剣に考察していた。しかし、私の物事を深く考えすぎるという癖があだとなってしまい、ほとんどの場合はつぶやくかわりに削除ボタンを押していた。

 それが今となっては思ったことをとことんつぶやくように一変してしまった。ツイートの数も2か月目の倍以上に増えた。よくツイッターを楽しんでいる人が「ツイートは呼吸である」と言っていたが、その真意をようやくつかむことができた。もちろんツイートするのボタンを押すことに何ら抵抗を感じなくなった。もはやツイ廃と化したのである。

 このように、私はここ数日の間にいわゆるツイ廃の仲間入りをした。ツイ廃になったことによってつぶやきや他人と絡むハードルが非常に低くなった。その一方で、読書などの共用に充てる時間は短くなってしまった。この記事ではそんなツイ廃になるメリットやデメリットについて考察していこうと思う。

<ツイ廃の強みについてーユウキリンリンー>

 ツイ廃になる強みは様々なことを心置きなくアウトプットすることができるということだろう。自分が本や記事を読んで思ったことを自分の言葉で表現し、アウトプットするということは、知識の定着において非常に効果的である。近年提唱されている、アクティブ・ラーニングにおいてもこの考え方は採用されている。読者の中には生徒同士が教科書の問題や原理について授業内で教え合いをしている姿を見たり、実際に生徒として実践してみたりした経験を持つ人もいるだろう。このように、知識の定着を目指す教育現場でもアウトプットの機会は重要視されている。ツイ廃になるということは、この知識の定着の機会を自ら多く作り出すことに等しいのである。

 ツイ廃になる強みの最たるものは、ツイ廃になる過程で勇気を鍛えられるということである。ツイ廃になるには思い切って「ツイートする」のボタンをクリックする経験を多く積み、それを当然のものとみなす必要がある。この過程は、かつての私のようなつぶやきについて長考してしまう人間や、変化を嫌う消極的な人間にとっては非常に難しい偉業である。そのため、「ツイートする」を日常的な行動にするまでの道のりでは、「よし、つぶやこう」という強い割り切りと実行力、そしてこれら二つの土台に位置する勇気が鍛えられる。以前の記事に述べたように、成功する人間は勇気を持っている。とすれば、ツイ廃になることはまさに成功への近道であるともいえる。勇気を鍛えられることは、ツイ廃になることの最大の利点である。

<ツイ廃になるデメリット>

 ここまでツイ廃になるメリットを述べてきた。しかし、ツイッターは完全無欠なものではない。当然ながらデメリットも存在する。この項では具体的にどのようなデメリットがあるかについて考察していく。

 ツイ廃になることによって生じるデメリットは、純粋にツイッター以外に充てられる時間が短くなることである。ツイ廃になるとタイムライン(フォロワーのつぶやきの流れ)に対応しようとするため、おのずとツイッターを監視する時間も長くなっていく。そのため、読書や趣味など、それ以外に充てる時間は短くなる。

 これは明らかに不利益であるように見える。しかし、コミュニ―ケーションをとる練習をすることができる、それ自体を楽しむことができるという観点で見れば、メリットだとも言いうる。重要なのは、自分が惰性でツイッターをやっているかどうかということである。何の目的もなくタイムラインを眺めていれば、当然得られるものは何もない。それは全く興味もない映画を見ていることと同義である。見ようと思っていない映画なのだから、面白いと思えるわけがない。惰性でツイッターを行うことは、このようなつまらない時間を過ごすことでもある。だからこそ、ツイ廃によって増えたツイッターの時間を有意義なものにするためには、「コミュニケーションを楽しむため」、「アウトプットをするため」というような目的を持つ必要がある。

 <まとめーご利用は計画的にー>

 ツイ廃になることは知識の定着やコミュニケーションをとるための勇気を養う上で非常に有効である。しかし、使い方を一歩間違えると、ただただ無駄な時間を過ごすことにつながってしまう。その為、計画的、意欲的な運用を心掛けたうえでツイ廃になるのが賢明である。

 ツイ廃の皆さん。ツイッターのご利用は計画的に。

ドラゴンタイプ

<私とドラゴンタイプ>

 ポケモンの中で「かっこいい」というイメージがあるといえばドラゴンタイプのポケモンだろう。レックウザディアルガをはじめとしてドラゴンタイプには多くの伝説のポケモンが属しており、その知名度は非常に高い。もちろん、ボーマンダカイリューのような一般ポケモンでも人気のあるものもいるため、ドラゴンタイプはまさに「ポケモンの看板」といっても過言ではない人気を誇っているといえよう。

 私もドラゴンタイプにロマンやかっこよさを抱いた少年少女の一人であった。私がポケモンに慣れ親しんだ頃は、ちょうどディアルガパルキアといったドラゴンタイプの伝説のポケモンが映画などに出演していた時期であった。映画やアニメを通じて彼らの強力なパワーや風格あるたたずまいを目にしたことによって、私は彼らに対して強いロマンを抱いた。この強い思いは数年たった後になってレシラム、ゼクロムと出会ったときに再燃した。このときの私はDSを持っていたため、ゲームの中で彼らと遭遇した。アニメや映画で表現されていた彼らの強さはゲームの中でも再現されていた。私はゼクロムとともに多くのトレーナーをいとも簡単に倒していったため、ゼクロムのその圧倒的なパワーに惚れ惚れした。こうして私はドラゴンタイプに並々ならぬ好感を抱くようになったのである。

<ドラゴンタイプとは?-ポケモン界の頂点に降り立ったものー>

 ドラゴンタイプとは何か?この記事ではこのタイプの魅力について語っていくわけであるが、その前にこのような基本的な事項についてもっ確認をしなくてはならない。本項ではドラゴンタイプとは何かについての基本的な説明を行っていく。

 ドラゴンタイプとは初代ポケットモンスターから存在するタイプの一つである。当時、ドラゴンタイプは希少な存在であった。というのもカイリュー系統しかこのタイプのポケモンが存在しなかったのである。ドラゴン使いのトレーナーである四天王のワタルが同じ種類のポケモンしか使わなかったのは有名な話ではあるが、その所以がこれである。このようにドラゴンタイプのポケモンは非常に希少な存在であった。

 ドラゴンタイプの特徴はその攻撃範囲の広さにある。初代以降、ドラゴンタイプの攻撃ははがねタイプを除くほとんどのタイプのポケモンに対し半減されずにダメージを与えることができた。そのため、多くのポケモンに対し強力な攻撃を浴びせることができた。また、ドラゴンタイプは防御面でも優れている。このタイプは最初の3匹の主要タイプであるくさ、ほのお、みずや、でんきタイプの攻撃を半減する。そのため、何も対策をせずにドラゴンタイプのポケモンと戦うと苦戦することになる。私もくさタイプのポケモンでドラゴンを強行突破しようとしたら、レベル差が5あるのにもかかわらず半分以上体力を削ることができず、返り討ちにあったことがある。このようにドラゴンタイプは相性ではすぐれた位置にいた。

 しかし、これは過去の栄光に過ぎない。ポケットモンスターX・Y以降に新たに導入されたフェアリータイプは彼らの立ち位置を大きく揺るがした。フェアリータイプはドラゴンタイプに対して弱点を突くことができるだけでなく、彼らからの攻撃を無効にすることができる。そのため、ドラゴンポケモンは必ずしも最強のポケモンとは言えなくなった。しかしながら、後述するようにドラゴンタイプのポケモンの多くはその能力値の高さも魅力的であるため、トップクラスのポケモンであるということは今もなお変わらない。

<ドラゴンタイプはなぜ強力なのかータイプを無視できるステータスの暴力ー>

 以上のように、ドラゴンタイプは希少な存在であっただけでなく、タイプ相性において強う立ち位置にいたため、これをもつポケモンはほとんどが最強格であるとみなされていた。しかし、フェアルータイプの存在によって、その立ち位置は揺らいでしまった。それでも彼らには高い能力値というも魅力がある。では、その強力なステータスは、なぜドラゴンタイプを最強たらしめているのだろうか。この項ではこのような問いについて具体例をあげつつ考察していく。

 ドラゴンタイプのステータスの高さは代表的なポケモンが600族といわれるグループに所属していることからうかがえる。600族とは、種族値ポケモンの能力を表したもの)の合計が600であるポケモンの総称である。通信対戦で有名であるボーマンダガブリアス、チャンピオンの手持ちとして有名なカイリューメタグロスがこれに該当する。この600という合計種族値は対戦で使えるポケモンの中では最高のものであるため、しばしば対戦でも非常に強力な性能を有する。例えば、ソード・シールドで初登場したドラパルトはほかの比にならないくらい高い素早さ種族値と平均以上の攻撃力によって対戦で最も使用されているポケモンの一匹となった。このように優れた性能を持つ600族はしばしば対戦で使用されてきた。実はこの600族の多くはドラゴンタイプなのである。メタグロスバンギラスを除く7種類のポケモンがドラゴンタイプである。このような能力値の高さはドラゴンタイプを強力たらしめているのである。

 もちろん、600族以外のドラゴンタイプも強力な力を秘めている。例えば、金銀で登場したキングドラは特性「すいすい」(ポケモン対戦では天気というものが存在する。この特性は天気が雨の時に素早さの能力値を2倍にする)と平均以上の種族値によってダブルバトルを中心に対戦でしばしば使われてきた。また、ブラック・ホワイトで登場したオノノクスはソード・シールドの対戦で使用可能なポケモン中最高の攻撃種族値を持つため、相手のパーティを崩す目的でよく使われてきた。このようにドラゴンタイプのポケモンは600族以外でも強力なステータスや特性を持つため、対戦では強力な立ち位置を確保できているのである。

<ドラゴンタイプにロマンを感じるのはなぜだろか?>

 このように強力な性能をもつドラゴンタイプは対戦において非常に高い人気を有している。しかし、対戦での人気があるだけではどうして私たちがドラゴンタイプにかっこよさを覚えるのか?を説明することができない。そこでこの項ではドラゴンタイプをロマンあふれるものにする要因とは何かについて考察していこうと思う。

 ドラゴンタイプのロマンはまさにその威厳ある外見にあると思われる。彼らの多くは設定上体の大きさが人を大きく上回っている。例えば、ボーマンダサザンドラはアニメにおいて人一人を乗せられるほどの大きな体を持っている。この体が大きいというのは私たちにロマンを感じさせる。読者の中には子供のころ、合体ロボやウルトラマンのことが好きだった人もいるだろう。これらは人間の何十倍も大きく、その一挙手一挙動が非常にダイナミックなものとなっている。この動きのド派手さは彼らをロマンあふれるものにさせる。もし人間くらいの大きさでロボットの時と同じような戦闘を繰り広げてもそこにはものサブ意思差が残るだろう。ビームを打っても、倒れこんでも、破壊される場所は限定的である。そのため大怪獣バトルにみられるような戦闘の派手さがない。体が大きいということは、モーションの派手さを保障しているということである。そのため、見ている人を飽きさせないような迫力感を出すことができ、ロマンを感じさせる。ドラゴンポケモンはまさのこの条件を満たしているといえよう。

 ドラゴンタイプのロマンは凶暴性そうな見た目にもあるといえる。例えばガブリアスボーマンダは目つきが非常い鋭く、またとがった歯や爪をもっている。このような特徴は動物的な強さを強調する。私たちはこのいかにも強そうな外見にも惹かれやすい。アクション俳優を思い浮かべるとわかりやすい。彼らはその役割上、肉弾戦を主に演じている。そのため、筋骨隆々であることが多いため、動物として強いということを視聴者に印象付けやすい。劇中でアーノルド・シュワルツェネッガーが敵を倒すシ-ンを見て、かっこいいと思うようなものである。このように生物的に強いと思わせられるような外見は人々の気を引きやすい。したがってドラゴンタイプは強そうな見た目を有しているため、ロマンを感じさせると考えられる。

<まとめ>

 ドラゴンタイプは強力なタイプである。フェアリータイプの登場によって最強の座は揺らいだが、高い能力値と優れたとくすぃによって今もなお最高ポケモンの一角を占めて居る、見た目でも「いかにも強そうな特徴」と大きな体によって私たちにロマンを感じさせる。伝説のポケモンの多くがドラゴンポケモンだった理由もこれで納得がいくだろう。ドラゴンポケモンは簡単に人気をとりやすいのである。

 しかし、ドラゴンタイプの中でもそのキャラクターの多様性は存在する。例えば、チルタリスはロマンを感じるというよりはむしろ「かわいらしい」という印象を与えるポケモンである。このようにドラゴンタイプといっても「かっこいい」の一辺倒ではない。近々登場するレジドラゴはドラゴンタイプ初のレジ系(レジロックなどの名前にレジがついたポケモンの総称)であり、無機質的なイメージを与ええるものとしても初めての存在である。このようなドラゴンタイプの多様化には今後も注目していきたいと思う。

孤独を語る私

<孤独を感じたあの瞬間>

 何かにすがりたいけど、何物にもすがることができない瞬間、あなたは孤独を感じる。完全に自分一人の力で乗り越えなければならないとき、必ず孤独は付きまとう。そのため、独立した大人になるためには避けては通れない問題である。孤独に打ち勝つのは大人として成熟するうえでも重要である。

 大人になりきっていない人ならばどこらしらで感じたことがあるだろう。かくいう私もつい先ほど経験してきたばかりである。私は今日初めて車を操作した。走る前に教習所の先生がコースの特徴やハンドルの回し方や座席の調整の仕方を私に教えてくれた。しかし、それからは特に用がない限り私に反応してくれることはなかった。経験が浅くて不安になっている私は臆病になって動作の一挙手一挙動を確認しながら行おうとした。それゆえ、何の反応もなかったときには孤独感を味わった。このように「頼れるものがいなくなった時」、人は孤独を感じるのだろう。

 この孤独は大人になるためには抜き去らなければいけない問題である。しかし、そのためには孤独の実態について考察しなくてはならない。本記事では孤独の実態について考察したのちに、孤独はどのようにして解消しうるのかについて考えていきたいと思う。

<孤独とは何者なのかー孤独の源泉は不安感ー>

 孤独とは何者なのか。これは孤独を解消するうえで欠かせない問いである。この項では孤独の実態について考えていく。

 運転の例でも述べたように、孤独感は頼れるものがいなくなると生じる。しかし、本当にそうだろうか?頼れるものは何もなくても孤独感を生じない人もいるはずではなかろうか?例えばプロ野球の投手は打者に向かって投げるときは誰とも相談することはない。もちろん打者が打席に入るまではチームメイトやコーチと話すことはあるだろう。しかし、一回打者が打席に入ってしまえばキャッチャーのサイン以外は一切のコミュニケーションをとらない。不安だからどうしようとか、これを投げれば抑えられるのとかをつぶやく暇なんてない。このようにピッチャーのマウンドはまさに孤独である。その中でも一流の選手は結果を残している。彼らは思い切ってボールを投げる。何も迷いを感じさせるところはない。孤独で大変そうな様子は当然見られない。なぜだろうか?答えは明白である。彼らは確固たる自信を持っている。俺の球を抑えられるものなら抑えてみろ、というゆるぎない自信があるからこそ、マウンドという場所が持つ孤独感を抱くことなく思い切って投げることができる。このように、頼れるものがない状況でも自身さえ持つことができれば孤独感を抱くことはない。孤独は何物にも頼ることができないために生じる不安感から生まれるのである。

<孤独をなくすには?-まずは経験を積むことからー>

 以上のように、孤独は頼れるものが存在しないことで生まれる不安から生まれる。ならば孤独を解消する方法は明確である。不安を抱かなくなるくらいの自信をつければよいだけである。

 では、自信をつけるにはどうすればよいのだろうか。自信というものは自分自身をどれくらい信頼できるかということである。すなわち自分は自分自身に課したタスクをしっかり遂行できるんだ確信できるかどうかということである。とすれば、自信をつける方法は簡単である。一日、もしくは一週間でやるべきタスクを定め、予定した通りにしっかりと遂行することを繰り返すとよい。朝起きたら今日は夜に筋トレをするという予定を立てる。そして夜になったら予定通りに筋トレを行う。こんな単純な作業を繰り返すだけで、自分はタスクをしっかりこなせる信頼できる人であるという感想を抱くようになる。この状態になればちっとやそっとのことでは不安を抱くことはなくなるーすなわち孤独を抱くことーがなくなる。この瞬間になってようやく、私たちは精神的に離乳することができるのである。

<まとめー孤独との巣立ちー>

 孤独は不安によって生じる。したがって孤独を感じなくなるためには、タスクをしっかりとこなすという貯金を積み重ねることで自分への信用を高めるー自信をつけるーことが重要になる。一番最初に述べたように孤独を克服することは大人になるうえで不可欠である。とすると、大人になるには自信を持つことが必要になる。こう考えてみると、自分を律するという学校教育で都合よくつかわれていた言葉が、実は本当に大人になるうえで必要なことであることがわかる。自分を律し、孤独を克服することこそ、大人の第一条件である。

カセキメラ問題を語る

<私とカセキメラー戦闘特化型化石ポケモンー>

 私はポケモンソード・シールドを始める前から彼らの存在を知っていた。彼らのうち、ウオノラゴンとパッチラゴンは超強力な技によって対戦でもっとも有名なポケモンの一つにカテゴライズされていた。そのため、ポケモンの対戦関連のウェブページや動画の中でしばしば彼らの姿や彼らについての情報を仕入れることができた。私はゲームを始める前に対戦についての動画をいくつか見た。その中にウオノラゴンの姿があった。後述するように、このポケモンは非常に奇抜な外見をしていた。そのため、彼の姿はとても印象に残った。

 ゲームを始める前からカセキメラの印象はとても強かった。しかし、私はゲームの中でも彼らに驚かされることになる。化石ポケモンポケモンに応じた化石を復元させることによって入手することができる。しかし、彼らの場合、該当する2種類の化石を適当な組合せで復元させることによって入手することができる。後述するように、これはポケモンシリーズを通じて初めてのことである。その斬新な入手方法からますます彼らの印象が強いものになっていった。

 入手してからも私は彼らに驚かされた。彼らは前評判通り、戦闘面では非常に頼りになった。例えばウオノラゴン(カセキメラの一種)はエラがみという技を覚える。この技は相手より早く行動できたときに威力が倍の170になる。そのため先制することさえできれば多くのポケモンに致命傷を与えることができる。私も実際にこのポケモンを使ってその強力な性能に驚かされた。彼らは戦闘面でも強く印象に残った。

<カセキメラとは何者か?>

 ここまでカセキメラに対する私の所感を述べてきた。ここで今一度彼らが何者かについて確認しておこう。

 カセキメラとはポケットモンスターソード・シールドで初登場した、パッチラゴン、ウオノラゴン、パッチルドン、ウオチルドンの総称である。彼らはいわゆる化石ポケモンというグループに属する。化石ポケモンとはゲーム内で手に入る特定の化石を研究員などの人物を通じて復元させることで入手できるポケモンの総称である。彼らもまた化石を復元させることで入手できるため、これらの中に含まれている。

 しかし、彼らは既存の化石ポケモンとは大きく異なる特徴をもつ。まず、岩タイプでないことである。化石ポケモンは「石」に由来するポケモンである以上、初代のオムスターカブトプスから岩タイプであるという慣例があった。しかし、カセキメラはどのポケモンも岩タイプを持たない。例えばウオノラゴンはパルキアと同じ水、ドラゴンタイプであり、パッチルドンは唯一のでんき、こおりタイプである。このように彼らはタイプで既存の化石ポケモンと一線を画している。しかし、それ以上に重要なのが化石の組み合わせによって入手することができるということである。所感の項でも述べたように、今までの化石ポケモンは化石と復元されるポケモンが一対一の関係にあった。例えば、たての化石からはタテトプスが、ずがいの化石からはズガイドスがそれぞれ復元される。しかし、カセキメラは組み合わせによって入手できるポケモンが決まる。例えば、ウオノラゴンはカセキのリュウとカセキのサカナの組み合わせで入手することができる。これこそが彼らが「キメラ」である所以である。このように、カセキメラは既存の化石ポケモンとは大きく異なる特徴を有しているのである。

<カセキメラのデザインーなぜ議論の的になったのか?->

 カセキメラは既存のポケモンとは大きく異なる特徴を持っている。それは彼らのデザインにもみられる。彼らのデザインはよくも悪くも話題になった。中には批判の声も上がっていた。なぜここまで話題になったのだろうか。この項では彼らのデザインについてみていくとともに議論の的となったものは何かという問いについても考えていく。

 先に述べたように、カセキメラはドッキングによって生まれたポケモンである。これは彼らの外見を見れば明らかである。例えば、パッチラゴンは弱弱しい上半身に似つかわしくないたくましい下半身を持っている。このようなドッキングのデザイン自体は、実は彼らが初めてではない。例えばヤドンの進化系であるヤドラン、ヤドキングは(多少の調整がかかっているが)シェルダーがしっぽ、または頭にかみついたデザインをしている。このようにポケモンポケモンのデザインはかなり初期のころから存在していた。しかし、カセキメラの場合は無理やりくっつけているという印象がぬぐえない。ヤドランやヤドキングの場合はシェルダーの部分に多少手が加わっている。そのため、ドッキングしたデザインであれど違和感を抱かずに受け入れられる。一方でカセキメラの場合、なんの手直しも加わっていない。そのためインターネットの世界にあふれている「コラ画像」のような印象を抱かざるを得ない。カセキメラのデザインに多くの人が注目したのは、まさにこの「無理やり感」を抱いたからである。

 彼らのデザインが議論になったのは「無理やり感」だけではない。生物としてはあり得ないような特徴も多くの人の注目を引き寄せた。例えば、ウオチルドンの口は頭のてっぺんに位置している。これは今までのポケモンだけでなく、実際に存在する魚類にもみられない奇抜なデザインである。魚の口はどこにあるのかと聞かれたら、私たちは顔の下側にあると答えるだろう。そのため、頭に口があるというウオチルドンの奇抜なデザインは私たちに違和感を抱かせる。この生物らしからぬ特徴も、議論になった理由の一つである。

 彼らのデザインが議論になったのは見た目だけが原因なのではない。彼らの設定も受け入れられがたいものだからでもある。例えば、パッチラゴンはその強靭な下半身で多くの獲物を食べて生活していたと図鑑内で説明されている。この説明はあたかも復元された姿で生活していたという印象を抱かせる。私たちはこの点に関して違和感を抱きやすい。なぜなら、彼ら自体は人為的にドッキングしたことによって現代によみがえったのである。にもかかわらず図鑑設定では人的に結合したという事実が無視されているように思われる。(ドッキングされる前のもとの姿について説明していたともとらえられるが、それならば別の本体についての記述―パッチラゴンの上半身のみに焦点を当てた記述―もなされなくてはならない)このようなゲーム内での入手方法と設定の矛盾も、彼らのデザインについて違和感を抱かざるを得ない要因の一つであると考えられる。

<彼らのデザインをどうとらえるか?ー論じ方の注意点ー>

 このように今までのポケモンとは良くも悪くも一線を画すデザインをもつカセキメラは多くの人々の注目の的となった。では、このポケモンをどのようにとらえるとよいのだろうか?この項では彼らのデザインに対する私の所感について述べていこうと思おう。先に断っておくがここで述べるのはあくまで私の意見である。この意見に従って彼らをとらえなければならないということは断じてない。読者諸君はぜひ、自分流のとらえ方というものを考えてみてほしい。

 私は彼らのデザインをこれまでの常識を覆そうとしたデザイナーの挑戦の結果と受け止めている。そのうえで、多くの人の注目を集めたという点で優れたデザインであると評価する。化石ポケモンはこれまでストーリー中で一部のトレーナーが使うというだけの言ってしまえば地味な存在であった。(映画などでしばしば出てきたプテラは例外ではあるが)これを読んでいる人の中でユレイドルやアバコーラを知っている人はどれくらいいるのだろうか。彼らは作中ではほとんど出てこないため、知らないという人がいるのは自然である。しかし、カセキメラはその奇抜なデザインと実際の戦闘能力によって多くの人の注目を浴びた。これは化石ポケモンの革命といっても過言ではない。それまでは「モブ」であったポケモンクッパのような大ボスに変貌したようなものである。このようにカセキメラはそれまでの化石ポケモンの立ち位置を大きく変え、「多くの人に認知されるポケモン」という上の立場についた好例であると私は考える。

 カセキメラのデザインについては「生命への冒涜である」という批判があがった。彼らの外見から判断するに食べ物をとることすらできないため、生きていくことすら難しく、現代に生きることすら彼らにとっては苦痛なのではないかと考えられるからである。しかし、この意見はあくまで仮想の世界の話であるという点で的外れである。そもそもの話、彼らがどのようにして物を食べ、消化しているといった話はあくまで二次創作の域を出ない。言ってしまえば所詮創作である。この創作に基づいて公式のデザインを批判することは、ありもしない仮説にもとづいて批判をしていることに等しい。まるでマフィアに襲われるかもしれないから防犯意識を持たなければいけないという論を一般人が言っているようなものである。このようにカセキメラに対する批判の多くは創作に基づいた話にならないものであることが多い。そのため、彼らを「生命の冒涜」という批判は個人の感想の範囲内でおさめるならよいが、公式への批判に発展させるのは筋違いなのではないかと考える。

 彼らのデザインに対する批判はどこまでが公式なのか?という視点をかけているために起こる。これは情報リテラシーが欠如している人の好例でもある。自分の主張を述べるためには正当な理由が必要である。ここでいう「正当」は誰もが疑問を抱かないようなものにしなくてはならない。たとえば、科学の世界では論文の中で用いられる根拠としては、再現性が認められる実験結果が用いられる。この実験結果は手順にのっとればだれもが同じような結果を出すことができるという点で「正当」である。一方で、二次創作というあくまで作者の主張のみに基づいた意見は正当であるといえるだろうか?これらの根拠は元をたどるとある人の推測にたどり着く。推測はあくまでもある人がデザインを見て思った考えであるため、必ずしもすべての人に納得されるようなものとはなりえない。そのため、これは「正当」な根拠にはなりえない。したがって、創作に基づいた批判は論としては成り立たない。情報を用いる際には使用用途とその情報の性質がマッチしているかを確認しておく必要がある。カセキメラ問題はまさにこの情報の扱い方を確認する好例にもなった。

<まとめ>

 カセキメラは今までのポケモンにないような見た目から良くも悪くも注目された。これは化石ポケモンが多くの人に認知されるようになった、いいきっかけになったと私は考えた。あなたはどう考えたのだろうか?

また、カセキメラ問題は論じ方についての復習の機会を与えてくれた。意見を抱き、説明するのは重要である。けれども、「生命の冒涜」の民のような主張だけは避ける努力をしていきたいと思う。私も論じるものとしてこの努力を怠らないようにしていきたい所存である。もし「この根拠は正当でない:といった意見があれば是非コメントしてほしい。

 
 

意見を持つには?

<朝起きて、トレンド見たら スガやめろ>

 朝起きてトレンドを見たら、そこにはスガやめろの字があった。私は困惑した。なぜまだ首相にもなっていない人が「やめろ」といわれなくてはいけないのか。彼らはニュースも読めないのか。前にも「アベやめろ」というトレンドを見たことあるが、それも陳腐な内容であったことを知っている私は、再びツイッターにあきれ返ることになった。

 とはいえ、やめろというからには何か理由があるはずだという淡い希望を私は抱いていた。そのため、実際にどんなコメントがされているのかを読んでいくことにした。しかし、その批判は私を満足させてくれなかった。やれ不誠実だやれ陰気だと、人格に関するような内容の批判が多かった。もし不誠実だからやめちまえというのであれば、相対性理論を確立したアインシュタインでさえも、女たらしであったというだけで偉人たり得ないのではなかろうか。このようなあまりにも非合理的な意見を見てしまった私は、「説明責任を果たしていない」という一見まともそうに見える批判についても、説明したところで無駄なのだからする必要はないのではと思うくらい、国民に失望するようになった。

 政治に対して意見を持つことは大切である。自分の生活に直接関係ないような大きな物事についてしっかり意見をもつことは、思考力を鍛えるうえでも重要である。逆に言えば思考を伴っていない意見は不必要なのである。今回のハッシュタグのような非合理的な批判はもはやただの雑音にすぎない。彼らが意見らしいものを言う前にやらなければいけないことは、成果を残すことである。

 今回は意見を言える資格を持つ人とはどのような人のことなのか、ということについて考察する。また、併せてこの資格を持つにはどのような鍛錬しなくてはいけないのかについても述べていこうと思う。「意見を持つ資格」というのは政治の話だけでなく、ゼミでの討論や新商品の開発会議といった日常にみられる多くの場面で必要になってくる。この記事を通じて読者諸君にもこの資格を身に着け、生産性のある討論をしてほしいと強く願う。

<なぜ意見を論じることができないのかー奴隷が政治から排除された理由―>

 意見を言える資格を持つ人は、意見を言えない人とは真逆の特徴をもつ。そのため、彼について考えるのであれば、「もたざる者」について考えてみることが最短経路である。この項では意見を論じることのできない人々について考えていく。

 意見を言えない人は思考力に大きな欠如がみられる人である。彼らは時間の使い方を考えたことがない。生産的に時間を使おうとせず、つらい現状を変えようとは一ミリも思わない。そのため、毎日何かに追われるような生活をしており、日常的に生活がつらいと愚痴る。この愚痴こそが彼らを意見の言えない人たらしめる究極の要因である。彼らは自分の不幸を他人や環境のせいにして、愚痴という形でこぼす。彼らは自分の時間の使い方に疑いの目を向けない。そのため、ものごとの本質を掴めないまま自分の感情のままに何かを攻撃する。先ほどの「スガやめろ」といっていた人々の大半は、このような考え方で生きてきた人々なのだろう。彼らは本質をとらえていないため、その意見には大きな非合理性がみられる。そのため、彼らは意見といえるようなものを持っていない。このように、思考力の欠如の見られる人は意見を言うことができないのである。

 このような人々は経済的にも苦しかったケースが多い。古代ギリシア、ローマの時代で奴隷といわれる立場にいた人々はまさに「意見を持たざる人」あった。「奴隷のしつけ方」を記したマルクス・シドニウス・ファルグスによれば、奴隷は自らの失敗を何かに擦り付けようとする精神的に貧しいものであるという。このことから顧みるに奴隷が政治に参加できなかったのは当然であると思われる。意見を持たないものは意見によって動く政治を動かすことができないからだ。奴隷という経済的に苦しい身分にある人々は、その精神までも貧しかったのである。

 その意味では、現在の政治は危機に瀕しているといえよう。国民主権の名のもと、今や誰もが政治に参加することができるようになった。これを言い換えるとするならば、意見をもつ、もたざる者にかかわらず誰もが政治を動かしてよいということになる。これは民衆の

多くが意見を持つものであれば機能する。イギリスの議会政治や古代ギリシアの民主政が功をなし、繁栄と平安を得られたのは政治を動かす人が意見を持つものであったからである。ところが今のほとんどの民主主義社会では意見を持たざる者も政治を動かすことができるようになっている。騒音しかならせないうるさい人々の意見まがいのものによって政治を動かせるようになっている。ファシズムが台頭したという歴史的事実は、民主主義社会において意見を持たないものが大半を占めてしまった国の末路を物語っている。とすれば、今の民主主義は危機に瀕しているといえる。「スガやめろ」にみられるような無知の暴力が政治を動かすことだって起こりうるのである。そのため、国民を教化し意見を持つ人にさせることは急務であると考える。

 このように意見を持たざるものは精神的、経済的に貧しい人々である。彼らは自分のことについてさえ真剣に考える力を持っていない。ましてや、自分に関係のないような政治の話についてはなおさら考えられない。彼らはよもやすると政治の権限を握るのかもしれない。読者諸君には彼らのようにならず、意見を持つ人になって政治を動かす人の多数派になってほしいと心から願う。

<意見を持たない人に向けられる福音はなにかー意見を持つための手段>

 それでは意見をもつにはどうすればいいのだろうか?答えは簡単である。持たざる者がやっていないこと、すなわち自分の現状とその打開策考え、時間を有効活用すればいいのである。具体的に何をすればいいのだろうか。本項では意見を持つものになるためには何をすべきかということについて具体的な鍛錬の方法と合わせて考えていく。

 まず、思考力を鍛える方法について考えてみよう。思考力を鍛えるときいて真っ先に思い浮かべるのは数学などの問題を解く力であろう。しかし、これによって鍛えられる思考力は、意見を持つために必要な力とは大きく異なる。問題を解くことによって得られるのは自分の経験や知識を問題解決のために応用する力である。三平方の定理や過去に解いた図形の問題の解法を利用して、初見の問題に挑むという力が、問題を解くうえでの思考力である。ところが、意見を持つうえで必要な思考力は「問題を見つける力である」。これを鍛えるもっともよい手段は日記である。自分の不安や不満足である点を書きすことで、問題を可視化する。意見を持たない人はこれをやる前からあきらめているため、問題の本質をとらえることができない。これは何も書かないで東大の数学の問題を解くようなものである。本質を見抜いていないため、意見もおのずと非合理的なものになる。それに対し、意見を持つ人は本当の問題は何かを知っているため、本質をついた解決策を考えることができる。数学の例だと、問題を「解くために必要ないくつかのステップ」に分けて解く場合である。この問題の本質を可視化する作業のできる人の意見は本質を理解しているため、非常に合理的なものになる。意見を言うには問題を明らかにする思考力が必要なのである。

 この思考力を得られた人はおのずと時間の使い方も上手なものになる。なぜなら、問題の可視化によって分かった解決策を実行するには時間を有効に活用しないといけないからである。例えば、成績が悪くて嘆いているとしよう。彼は成績が悪いという現状に不安を抱いている。彼は問題の可視化を行うことによって、成績が悪いという現状を変えるには、勉強時間をコンスタントに確保しなければならない、ということに気づいた。彼は可視化を勉強時間が短いのはなぜかという問題に対しても行った。すると「彼は一日のほとんどを惰性で遊んですごしている」ということに気づいた。ここで彼は時間を有効活用しないといけないということを知り、その必要性に迫られるのである。このように、問題の解決のためには時間を生産的に消費する必要があることが多い。逆に言えば、時間を活用しないといけないと思っていない人々は、そもそも現状を辛いものではないと半ば妥協している意気地なしか辛い現状を知ろうとしない臆病者であるといえよう。時間を有効活用は意見を持つ人ならば誰にでもできるような当然のふるまいである。それゆえに、生産的に時間を使うことは意見を持つ人になるために必要なことであると考える。

 このような時間の使い方をするには何をすればよいのだろうか。答えは簡単である。目標、スケジューリング、振り返りをセットで行うだけでいい。自分がやらなければいけないことをスケジューリングのコンセプトを決めるように目標という形で表現してみる。このコンセプトに基づいてやらなければいけないことをスケジュール表に書きこむ。そして、当日を終えてできなかった理由をしっかり考察する。この3点セットができれば誰でも意見を持つ人になれるはずである。なんと手軽であることよ。

<まとめー大衆を支配せよー>

 今の日本は無知の大衆が多くを占める典型的な民主主義国家の行く末である。オルデガが「大衆の反逆」で述べたように、自らの翼級しか考えない大衆によって支配された社会は、暴力的でエネルギーのない。荒れ地のようなものである。このような社会になりつつある日本を私は嘆きたい。

 しかし、その前にしっかり意見を持つ人にならなくてはいけない。問題を日記によっちぇ明確にし、時間を有効活用することによって現状を変えていく。この意見を持つために必要なステップを私はまだ完全に身に着けていたい。ゆえに私が日本を嘆くことは許されない。嘆く前に意見を持つ人にならなくてはいけないからである。

 今の日本は意見を持つ少数派が政治を動かしているある種の理想的な状態にある。この傾向はおそらく今後も続いていくことだろう。そうなれば、意見を持つものが持たないものをコントロールするという構図が出来上がるのは間違いない。自分の人生を有利にするためにはもちろん持つものに属さなければならない。このような意味でも私は意見を持つものになりたいと強く思うのである。ぜひ読者諸君も持つものになってほしいと切に願う。

 
 

日記をかける条件について

<私が日記を書こうとしたきっかけ>

 一時期、私は自己啓発のためにいろいろな本を読み漁っていた。その中でひときわ印象に残ったのが「7つの習慣」であった。この本はよく生きる方法を私に教えてくれた。その方法の一つに「自分ルールー憲法ーをつくり、しっかりと守る」というものがある。自分がどんな人間でいたいかを決め、それを実現するために守らなければいけないルールを定めるというこの教えは、私の生き方に大きな影響を与えた。7つの習慣の中では、この教えを実行に移すには「振り返ることが必要である」ことも説かれていた。私はこの教えにのっとって、日記を書くことを決めた。

 しかし、この試みは長くは続かなかった。最初の1か月は禁欲日数をカウントする目的も兼ねていたため継続することができた。ところが、禁欲が習慣になってくるとカウントしなくても維持できるようになったため、日記を書く重要性が今までに比べて小さくなっていった。そのため、日記を書く頻度も大きく落ちてしまった。今自分の日記を読み返してみたところ、以前に書かれたのはなんと20日前だったのである。もはや習慣化しているとは程遠い。まさに7つの習慣の教えを実行するつもりであったが、「つもり」にとどまってしまった凡人の典型的な末路であるといえよう。

 このような状況に危機感を覚えた私は、日記を再び書き始め、習慣化させようと思った。何より7つの習慣に書かれたことを実践し、我物にしたいからである。「論語学びの論語知らず」という言葉があるように、実践の伴わない学びは学びとは言えない。本の内容を自分のものにし、良い人生に近づけるためにも振り返りを実践していこうと考えた。

 私が日記書きを再開したいと思ったのは、自分の思考を整理する時間はとても楽しいものだったということを思い出したからでもある。後述するように、日記は自分の考えていることを言語化することによって、あいまいだった考えを整理することを可能にする。実際に大学生活の漠然とした不安を抱いていた私は、日記を書くことによってそれを解決したことがある。このわからないことがわかる快感は非常に痛快なものであり、楽しかった。私はこの感覚をもう一度味わおうと思い、日記を書き始めようと思い至った。

 日記を書きたい気持ちはあるが、かけるような環境を作らないと前回の二の舞になってしまう。そのため、なぜ続けられなかったのか?という問いに対して明確に答えられるような分析を行わなけてればならない。本記事では日記の再開の仕方という例にとって、「どうすれば習慣化できるか」について考えていこうと思う。

<そもそもなぜ日記でないといけないのか?>

 なぜ日記でないといけないのか?これは習慣化するうえで避けては通れない問いである。そもそもの話、習慣化するということは明確なメリットがないとまず不可能である。日記を書くこと以上に目的にかなった方法があるのなら、わざわざ日記書きをとる必要がないのは明白である。そのため、日記を書く動機についてさらに掘り下げておく必要がある。

 日記を書く主な理由は自分の思考を整理できるということである。最初の方でも述べたように、自分の思考は文章にすることで整理できる。例えば、あなたが学校での友人関係について漠然とした不安を抱いているとしよう。あなたはなんとなく友達作りができるかどうかに対して不安を抱いている。この気持ちを詳しく言語化してみるとどうなるだろうか。ただ「不安だ」でとどめるのではなく、「何が」あなたに対し「どのように」働きかけることで不安を生じさせるのかを書いてみる。すると不安を抱く理由が見えてくる。友人関係がうまくいかないと、仲間から見放されてしまう。この事実はあなたに孤独感を与える。孤独感はあなたに、「誰も仲間がいない、頼ることができない」と考えさせるように仕向ける。そして自信のないあなたは不安を抱く。不安の正体は「孤独感」とそれに由来する「自信のなさ」であることがわかる。そのため、この不安を解決するには「頼らなくても生きることができる」という自信をつけるとよい、という一種の回答を得ることができる。このように、日記による言語化は不安と飯田漠然とした感情を明らかにし、さらにはその感情との付き合い方までも教えてくれる。言語化はあなたの生活にゆとりを持たせる最良の手段なのである。

 日記はまた、あなたに自信を与えてくれる。日記に今日できたことをつづるだけで、あなたは「やればできる」という感情を抱く。前の記事で書いたように、自信は成功体験を重ねることで身に着けられる。成功体験を毎日つづったとしても、それが2、3年積み重なれば山となる。この状態になれば「私にできること多い」ということが目に見えてわかるーすぐに自信を持つことができるーようになる。日記はあなたの不安を解消する助けとなる「自信」も与えてくれるのである。

 日記を習慣化することは「自分の目標を再確認する機会を増やす」ことでもある。私が日記を再開しようと思ったきっかけは「自分ルールにのっとった生活をしているか」という振り返りをしようと思ったことである。日記の中で毎日目標やルールを書くことで、自分の記憶にとどめられるようにすることができる。もし、日記を書かないのであれば、私たちは自分の目標ですら3日で忘れてしまうのだろう。目標に向かって動くというエネルギーの使う行動をわざわざとりたくないからである。日記はこの惰性に向かった動きに対して軌道修正をかけてくれる。ゆえに私たちは日記を書くことで「目標に向かって生きる」という、充実した生を謳歌することができるのである。

<こんなにもメリットがあるのにどうしてできなかったのでしょう?>

 私が書いていて疑問に思ったのは、ここまで明確なメリットがあるのになぜ続けられなかったのかということである。自信を持てる、思考を整理できる、人生を充実させられる、というメリットは非常に大きいものであることは説明したとおりである。にもかかわらず、私は続けることができなかった。なぜだろうか?このパートでは習慣化しようとして失敗した理由について考えていきたいと思う。

 習慣化できない理由の一つが「やらなくても生きていけるから」である。私たちは日々の仕事さえこなしていれば最低限度の生活の保障を受けることができる。そのため、日記など直接生活にかかわらないことを習慣化しなくても「生きること」自体は可能である。前の記事でも述べたように「生死にかかわるか否か」ということは本気になれるかどうかを左右する大きな要因である。例えば、自転車で20キロ離れた場所へと遠征したとき、あなたは日が落ちるまで帰らなければいけないため、なんとかして帰ろうと努力する。日が落ちてしまうと「帰れなくなるのではないか」という生死に関する不安がよぎる。そのため、生きようという本能が働き、普段では考えられないような力を出すことができる。このように生死にかかわる状況か否かということは本気になれるかに大きく影響を与える。私が日記を続けられなかったのは、この生死に関する本気度が足りなかったからである。

 日記を書けなかった理由として、生理的な欲急に負けてしまいがちだったということである。私は禁欲生活を得て、食欲と性欲をコントロールすることができるようになった。しかし、睡眠欲だけはどうしても制御できなかった。私は日記書きを一日を振り返られる時間である寝る前に行っていた。そのため、強烈な睡眠欲に負けてしまい、日記を書くことを放棄してしまうことも多かった。また、寝ることは我慢できたとしても熟考できるほどの体力が残っていない場合もあった。そのため、いかにして集中した状態で日記を書けるようにするべきかを考える必要があると思われた。

 人間は飽きてしまうとすぐにやめようとする傾向がある。例えば、作業中心のゲームは毎回やることが決まっているため、単調になりやすい。そのため、刺激がないことに退屈してしまい、放り出してしまうことが多い。私の日記もそうだった。私はできたこと、不安なこと、目標の3つに対してのチェックをずっと行ってきた。私はこれをテンプレートのように扱い、惰性で書くことがいつしか多くなってしまった。刺激がなくなってしまうと空きやすくなる。私は日記を書くことに飽きてしまい、放り出そうと思ってしまったのである。

<じゃあどうすれば続けられるの?>

 ここまでなぜ続けられなかったのかという原因について考えてきた。本気になれない、欲急に負ける、飽きるということが根本的な原因である。それではこれらの問題を解決し、日記を続けられるようにはどうすればよいのだろうか?ここでは日記を継続するために気を付けるべきことについて考えていこうと思う。

 まず、本気になれないという問題について考えてみよう。本気になれないのは生死に関係しないからである。確かに日記を書かないから死んでしまうということはない。しかし、精神的には死んだのと同然になることは十分あり得る。実際に私は日記を書かなくなってから虚無感を抱くことが多くなった。日記は言語化することで思考を整理することができる。そのため、日記を書かなくなった私は漠然とした問題に対して明確な解を持つことができなくなってしまった。問題に対してぼーっと考えることが多くなり、何の生産性もない時間を過ごすことが増えてしまった。これは充実した生を謳歌しているといえるだろうか?生産性のない時間を過ごすということは、自分の生きたいように生きる人生とは大きくかけ離れている。ならばこれは精神的な死であるといえないだろうか?精神的な死も立派な死であるといえる。そのため思考を整理しないということは広義的に生死を左右することでもあるといえる。したがって、精神的な死を恐れることで本気に荒れると考えられる。

 それでは、欲急について考えてみよう。私は性と食の欲求を克服してきた。これを達成するために、私は何かに没頭するようにしていた。集中すると周りのものが見えなくなる。入試本番の際にほかの受験生のことを気にしないで、ただただ問題と向き合っていたことを思い出すといいだろう。このとき、あなたは空腹感を覚えただろうか?ほとんどの場合、受かりたいという一心でひたすら問題を解いていたはずだ。あなたたちは禁欲の方法を知っているのである。ならばこれを日記についても当てはめるといいのである。日記に集中できるような状況を整えるといいのだから、書く前にはまっていることをやってみるといいと考える。私の場合、集中しやすいのはイラストを描くときや、文章を書く時である。そのため、日記を書く前にこれらのアクションを選択することで集中した状態を維持して日記を書くことができるようになる。集中を維持できる方法を考えることが重要である。

 惰性になってしまう問題についてはどう対処すればよいのだろうか?振り返りを行うという日記の目的を考えると、書く内容はどうしてもテンプレートになってしまう。飽きることがないようにするには、どこかで変化をつけるとよい。この場合、どこに変化をつければよいのだろうか?表現の形式を変えればいいと私は思う。知らない単語をあえて使ってみたり、外国語で書いてみたり、このような小さい変化があるだけで飽きる状態を防ぐことができる。続けるうえでは、小さな変化でも与えることが大事である。

<まとめ>

 以上のように少しの工夫を施すことによって継続することができる。よく継続にはやる気が重要だといわれることがある。しかし、これは根源的な原因を無視している。実際は欲求や惰性といった、「やる気」があるかどうかよりも具体的で細かい要因がかかわっている。ところがそれを無視し、「やる気をつけなきゃ」という結論に至ってしまうといつまでたっても続けることはできない。やる気はそれを出すことのできる状況を作ればすぐに解決する問題である。精神論に帰結するのではなく、さらに根源的な原因は何かということについて考えることが、継続するうえで重要であると考える。

 日記はあなたの人生を充実させるパートナーである。私自身、このパートナーと別れてから「生きがい」を失ったような感覚を抱いている。それくらい人生の質に大きな影響を持っているのである。書くことは、QOLを爆上げする最も簡単なツールである。ぜひ、ここで述べた方法で継続し、人生を充実したものにさせてほしい。