ツイッターを私なりに語るだけ

<ツイ廃になりかけてしまう私>

 2か月前、私はようやくTwitterを始めることにした。いかにして短いも字数制限の中で自分の考えを分かりやすく伝えるとよいのかについて、つぶやくたびに真剣に考察していた。しかし、私の物事を深く考えすぎるという癖があだとなってしまい、ほとんどの場合はつぶやくかわりに削除ボタンを押していた。

 それが今となっては思ったことをとことんつぶやくように一変してしまった。ツイートの数も2か月目の倍以上に増えた。よくツイッターを楽しんでいる人が「ツイートは呼吸である」と言っていたが、その真意をようやくつかむことができた。もちろんツイートするのボタンを押すことに何ら抵抗を感じなくなった。もはやツイ廃と化したのである。

 このように、私はここ数日の間にいわゆるツイ廃の仲間入りをした。ツイ廃になったことによってつぶやきや他人と絡むハードルが非常に低くなった。その一方で、読書などの共用に充てる時間は短くなってしまった。この記事ではそんなツイ廃になるメリットやデメリットについて考察していこうと思う。

<ツイ廃の強みについてーユウキリンリンー>

 ツイ廃になる強みは様々なことを心置きなくアウトプットすることができるということだろう。自分が本や記事を読んで思ったことを自分の言葉で表現し、アウトプットするということは、知識の定着において非常に効果的である。近年提唱されている、アクティブ・ラーニングにおいてもこの考え方は採用されている。読者の中には生徒同士が教科書の問題や原理について授業内で教え合いをしている姿を見たり、実際に生徒として実践してみたりした経験を持つ人もいるだろう。このように、知識の定着を目指す教育現場でもアウトプットの機会は重要視されている。ツイ廃になるということは、この知識の定着の機会を自ら多く作り出すことに等しいのである。

 ツイ廃になる強みの最たるものは、ツイ廃になる過程で勇気を鍛えられるということである。ツイ廃になるには思い切って「ツイートする」のボタンをクリックする経験を多く積み、それを当然のものとみなす必要がある。この過程は、かつての私のようなつぶやきについて長考してしまう人間や、変化を嫌う消極的な人間にとっては非常に難しい偉業である。そのため、「ツイートする」を日常的な行動にするまでの道のりでは、「よし、つぶやこう」という強い割り切りと実行力、そしてこれら二つの土台に位置する勇気が鍛えられる。以前の記事に述べたように、成功する人間は勇気を持っている。とすれば、ツイ廃になることはまさに成功への近道であるともいえる。勇気を鍛えられることは、ツイ廃になることの最大の利点である。

<ツイ廃になるデメリット>

 ここまでツイ廃になるメリットを述べてきた。しかし、ツイッターは完全無欠なものではない。当然ながらデメリットも存在する。この項では具体的にどのようなデメリットがあるかについて考察していく。

 ツイ廃になることによって生じるデメリットは、純粋にツイッター以外に充てられる時間が短くなることである。ツイ廃になるとタイムライン(フォロワーのつぶやきの流れ)に対応しようとするため、おのずとツイッターを監視する時間も長くなっていく。そのため、読書や趣味など、それ以外に充てる時間は短くなる。

 これは明らかに不利益であるように見える。しかし、コミュニ―ケーションをとる練習をすることができる、それ自体を楽しむことができるという観点で見れば、メリットだとも言いうる。重要なのは、自分が惰性でツイッターをやっているかどうかということである。何の目的もなくタイムラインを眺めていれば、当然得られるものは何もない。それは全く興味もない映画を見ていることと同義である。見ようと思っていない映画なのだから、面白いと思えるわけがない。惰性でツイッターを行うことは、このようなつまらない時間を過ごすことでもある。だからこそ、ツイ廃によって増えたツイッターの時間を有意義なものにするためには、「コミュニケーションを楽しむため」、「アウトプットをするため」というような目的を持つ必要がある。

 <まとめーご利用は計画的にー>

 ツイ廃になることは知識の定着やコミュニケーションをとるための勇気を養う上で非常に有効である。しかし、使い方を一歩間違えると、ただただ無駄な時間を過ごすことにつながってしまう。その為、計画的、意欲的な運用を心掛けたうえでツイ廃になるのが賢明である。

 ツイ廃の皆さん。ツイッターのご利用は計画的に。