意見を持つには?

<朝起きて、トレンド見たら スガやめろ>

 朝起きてトレンドを見たら、そこにはスガやめろの字があった。私は困惑した。なぜまだ首相にもなっていない人が「やめろ」といわれなくてはいけないのか。彼らはニュースも読めないのか。前にも「アベやめろ」というトレンドを見たことあるが、それも陳腐な内容であったことを知っている私は、再びツイッターにあきれ返ることになった。

 とはいえ、やめろというからには何か理由があるはずだという淡い希望を私は抱いていた。そのため、実際にどんなコメントがされているのかを読んでいくことにした。しかし、その批判は私を満足させてくれなかった。やれ不誠実だやれ陰気だと、人格に関するような内容の批判が多かった。もし不誠実だからやめちまえというのであれば、相対性理論を確立したアインシュタインでさえも、女たらしであったというだけで偉人たり得ないのではなかろうか。このようなあまりにも非合理的な意見を見てしまった私は、「説明責任を果たしていない」という一見まともそうに見える批判についても、説明したところで無駄なのだからする必要はないのではと思うくらい、国民に失望するようになった。

 政治に対して意見を持つことは大切である。自分の生活に直接関係ないような大きな物事についてしっかり意見をもつことは、思考力を鍛えるうえでも重要である。逆に言えば思考を伴っていない意見は不必要なのである。今回のハッシュタグのような非合理的な批判はもはやただの雑音にすぎない。彼らが意見らしいものを言う前にやらなければいけないことは、成果を残すことである。

 今回は意見を言える資格を持つ人とはどのような人のことなのか、ということについて考察する。また、併せてこの資格を持つにはどのような鍛錬しなくてはいけないのかについても述べていこうと思う。「意見を持つ資格」というのは政治の話だけでなく、ゼミでの討論や新商品の開発会議といった日常にみられる多くの場面で必要になってくる。この記事を通じて読者諸君にもこの資格を身に着け、生産性のある討論をしてほしいと強く願う。

<なぜ意見を論じることができないのかー奴隷が政治から排除された理由―>

 意見を言える資格を持つ人は、意見を言えない人とは真逆の特徴をもつ。そのため、彼について考えるのであれば、「もたざる者」について考えてみることが最短経路である。この項では意見を論じることのできない人々について考えていく。

 意見を言えない人は思考力に大きな欠如がみられる人である。彼らは時間の使い方を考えたことがない。生産的に時間を使おうとせず、つらい現状を変えようとは一ミリも思わない。そのため、毎日何かに追われるような生活をしており、日常的に生活がつらいと愚痴る。この愚痴こそが彼らを意見の言えない人たらしめる究極の要因である。彼らは自分の不幸を他人や環境のせいにして、愚痴という形でこぼす。彼らは自分の時間の使い方に疑いの目を向けない。そのため、ものごとの本質を掴めないまま自分の感情のままに何かを攻撃する。先ほどの「スガやめろ」といっていた人々の大半は、このような考え方で生きてきた人々なのだろう。彼らは本質をとらえていないため、その意見には大きな非合理性がみられる。そのため、彼らは意見といえるようなものを持っていない。このように、思考力の欠如の見られる人は意見を言うことができないのである。

 このような人々は経済的にも苦しかったケースが多い。古代ギリシア、ローマの時代で奴隷といわれる立場にいた人々はまさに「意見を持たざる人」あった。「奴隷のしつけ方」を記したマルクス・シドニウス・ファルグスによれば、奴隷は自らの失敗を何かに擦り付けようとする精神的に貧しいものであるという。このことから顧みるに奴隷が政治に参加できなかったのは当然であると思われる。意見を持たないものは意見によって動く政治を動かすことができないからだ。奴隷という経済的に苦しい身分にある人々は、その精神までも貧しかったのである。

 その意味では、現在の政治は危機に瀕しているといえよう。国民主権の名のもと、今や誰もが政治に参加することができるようになった。これを言い換えるとするならば、意見をもつ、もたざる者にかかわらず誰もが政治を動かしてよいということになる。これは民衆の

多くが意見を持つものであれば機能する。イギリスの議会政治や古代ギリシアの民主政が功をなし、繁栄と平安を得られたのは政治を動かす人が意見を持つものであったからである。ところが今のほとんどの民主主義社会では意見を持たざる者も政治を動かすことができるようになっている。騒音しかならせないうるさい人々の意見まがいのものによって政治を動かせるようになっている。ファシズムが台頭したという歴史的事実は、民主主義社会において意見を持たないものが大半を占めてしまった国の末路を物語っている。とすれば、今の民主主義は危機に瀕しているといえる。「スガやめろ」にみられるような無知の暴力が政治を動かすことだって起こりうるのである。そのため、国民を教化し意見を持つ人にさせることは急務であると考える。

 このように意見を持たざるものは精神的、経済的に貧しい人々である。彼らは自分のことについてさえ真剣に考える力を持っていない。ましてや、自分に関係のないような政治の話についてはなおさら考えられない。彼らはよもやすると政治の権限を握るのかもしれない。読者諸君には彼らのようにならず、意見を持つ人になって政治を動かす人の多数派になってほしいと心から願う。

<意見を持たない人に向けられる福音はなにかー意見を持つための手段>

 それでは意見をもつにはどうすればいいのだろうか?答えは簡単である。持たざる者がやっていないこと、すなわち自分の現状とその打開策考え、時間を有効活用すればいいのである。具体的に何をすればいいのだろうか。本項では意見を持つものになるためには何をすべきかということについて具体的な鍛錬の方法と合わせて考えていく。

 まず、思考力を鍛える方法について考えてみよう。思考力を鍛えるときいて真っ先に思い浮かべるのは数学などの問題を解く力であろう。しかし、これによって鍛えられる思考力は、意見を持つために必要な力とは大きく異なる。問題を解くことによって得られるのは自分の経験や知識を問題解決のために応用する力である。三平方の定理や過去に解いた図形の問題の解法を利用して、初見の問題に挑むという力が、問題を解くうえでの思考力である。ところが、意見を持つうえで必要な思考力は「問題を見つける力である」。これを鍛えるもっともよい手段は日記である。自分の不安や不満足である点を書きすことで、問題を可視化する。意見を持たない人はこれをやる前からあきらめているため、問題の本質をとらえることができない。これは何も書かないで東大の数学の問題を解くようなものである。本質を見抜いていないため、意見もおのずと非合理的なものになる。それに対し、意見を持つ人は本当の問題は何かを知っているため、本質をついた解決策を考えることができる。数学の例だと、問題を「解くために必要ないくつかのステップ」に分けて解く場合である。この問題の本質を可視化する作業のできる人の意見は本質を理解しているため、非常に合理的なものになる。意見を言うには問題を明らかにする思考力が必要なのである。

 この思考力を得られた人はおのずと時間の使い方も上手なものになる。なぜなら、問題の可視化によって分かった解決策を実行するには時間を有効に活用しないといけないからである。例えば、成績が悪くて嘆いているとしよう。彼は成績が悪いという現状に不安を抱いている。彼は問題の可視化を行うことによって、成績が悪いという現状を変えるには、勉強時間をコンスタントに確保しなければならない、ということに気づいた。彼は可視化を勉強時間が短いのはなぜかという問題に対しても行った。すると「彼は一日のほとんどを惰性で遊んですごしている」ということに気づいた。ここで彼は時間を有効活用しないといけないということを知り、その必要性に迫られるのである。このように、問題の解決のためには時間を生産的に消費する必要があることが多い。逆に言えば、時間を活用しないといけないと思っていない人々は、そもそも現状を辛いものではないと半ば妥協している意気地なしか辛い現状を知ろうとしない臆病者であるといえよう。時間を有効活用は意見を持つ人ならば誰にでもできるような当然のふるまいである。それゆえに、生産的に時間を使うことは意見を持つ人になるために必要なことであると考える。

 このような時間の使い方をするには何をすればよいのだろうか。答えは簡単である。目標、スケジューリング、振り返りをセットで行うだけでいい。自分がやらなければいけないことをスケジューリングのコンセプトを決めるように目標という形で表現してみる。このコンセプトに基づいてやらなければいけないことをスケジュール表に書きこむ。そして、当日を終えてできなかった理由をしっかり考察する。この3点セットができれば誰でも意見を持つ人になれるはずである。なんと手軽であることよ。

<まとめー大衆を支配せよー>

 今の日本は無知の大衆が多くを占める典型的な民主主義国家の行く末である。オルデガが「大衆の反逆」で述べたように、自らの翼級しか考えない大衆によって支配された社会は、暴力的でエネルギーのない。荒れ地のようなものである。このような社会になりつつある日本を私は嘆きたい。

 しかし、その前にしっかり意見を持つ人にならなくてはいけない。問題を日記によっちぇ明確にし、時間を有効活用することによって現状を変えていく。この意見を持つために必要なステップを私はまだ完全に身に着けていたい。ゆえに私が日本を嘆くことは許されない。嘆く前に意見を持つ人にならなくてはいけないからである。

 今の日本は意見を持つ少数派が政治を動かしているある種の理想的な状態にある。この傾向はおそらく今後も続いていくことだろう。そうなれば、意見を持つものが持たないものをコントロールするという構図が出来上がるのは間違いない。自分の人生を有利にするためにはもちろん持つものに属さなければならない。このような意味でも私は意見を持つものになりたいと強く思うのである。ぜひ読者諸君も持つものになってほしいと切に願う。