怠惰な人が本気を出す条件

<私と松島チャレンジー限界を超えてー>

 怠け者でも本気でやるときがある。先日、おのれの限界に挑もうと仙台市内から松島までの往復40キロにわたるサイクリングを実行した。普段は予定を建てないしょせん怠け者の私だが、いざチャレンジとなると「死ぬ気」でこぎ続けることができた。帰り道は太ももが悲鳴を上げていたのにもかかわらず、底力で無事家までたどり着くことに成功した。まるで何かに急き立てられたかのように、私は無心で漕いでいた。

 普段の怠け者の私が、なぜこの時ばかりはおのれの限界を超えてこぐことができたのだろうか。何も心に思うことがなければ、途中で休憩をはさんだり、現地で止まることだってできたはずである。しかし、あえてそのような楽な道を選ばずに進み続けるという苦の道選んだのはなぜなのだろうか。先の段落で述べた急き立てる力とはどのようなものなのだろうか。この項では「本気になる条件」としていかなる場合に人は底力を発揮することができるのかについて考えていこうと思う。

<本気になる条件その1-あからさまのネガティブ・イメージを持つ>

 私は家を出る前に家族と19時までには帰るという約束をしていた。この約束は私の松島チャレンジの原動力になった。そのため、険しい坂道や長く平坦な道路でもこぎ続けることができた。このとき、私は心配させてしまってはいけないという一心で漕いでいた。もし家族に心配されてしまっては、帰ってから長々しい説教を受けることが目に見えていたからである。私もそうだが、愚痴に近いような説教を進んで受けようとする人はいない。この「説教を受けたくない」というネガティブイメージによって、私は仙台までの長い道のりを走ることができた。

 このように「明確に負のイメージを持つ」ことは本気になるうえでの重要な要素である。ともすればこれは成功するイメージをもつことよりも効果的である。例えば、A大学に受かったら進路の選択肢が増えるし、研究もしやすいから入ろうと思って努力しても、結局未来の自分の快楽がわからないわけなのだから、それを投げ捨ててしまう。このような経験をしたことのある人は多いのではなかろうか。人は目先の利益に注意を向けやすく、逆に未来の利益に向かって努力するのは相当な労力を有する。そのため、目先の利益が良いと思ったのなら長期的な利益を放棄してでもそれを取ろうとする。したがって、プラスの発想から始める努力はなかなか本気で取り組むことにつながりにくい。一方で、マイナスに落ちると考えた時は、そこから抜け出さないと生きていけないわけなのだから比較的本気になりやすい。今回の例では、説教という耳の痛いイベントを何とか阻止したいという思いが非常に強かったため、松島―仙台間の往復を成功することができた。このように、明確なマイナスイメージは自分を本気へと駆り立てやすい。

 マイナスイメージは人を本気にさせる。「これをやらないと人間のクズとみなされる」、「ここで逃げては生涯臆病者と馬鹿にされる」とおいうことを考えて物事に挑むと、夏休みの宿題を締め切り直前になってようやく取り組む子供のように本気になって努力することができるようになるのではないか。

<本気になる条件その2-退路を絶てー>

 私が挑戦した松島は家のある仙台市内からはるかに遠く、なかなか迎えに雇用にも難しいような場所である。また、私は自転車でやってきたため、電車やバス、タクシーを使って楽に変えることが難しかった。さらに、松島やその道中で寝泊まりできるような金や道具も用意していなかったので、「こがなければ野外に取り残されてしまう」という命の危険を感じていた。このように私は松島へ行くとき多くの退路を絶っており、それが本気を出すことへとつながっていった。

 逆に言うと人間が本気を出せないのは多くの退路を持っているからである。そこら辺の一般の人が「本気出してやる」といったところでほとんどの人は本気を出さない。なぜならばたとえ失敗しても大きくマイナスになることが少ないからである。例えば歌をうまく歌えるようにするために歌の練習をするとしよう。この場合、仮に歌がうまくなくても彼の生活に何らかの影響が及ぶわけではない。いいかえれば別に練習しなくても大きなマイナスになることはないのである。先に述べたように人間は目先の利益ばかり着目する。そのため「別の悪い影響が出ないのであれば、今辛い練習をするよりかは遊んで楽をしたい」と思い、大抵の場合は練習しない。このように退路がある限りは本気になることはまず不可能なのだ。

 さらに恐ろしいことに現代人のほとんどは少なくとも何かしらの退路を常に持ち続けなければいけない運命にある。現代日本はどのような人も生きていけるようなシステムを持っている。逆に言えばどんなに置きこまれた状況であっても何らかの退路が用意されているというわけである。それゆえ、多くの人は自分のふがいなさに絶望する前まで、自分が持つありとあらゆる退路に逃げ続けることができる。そのため、意識的に退路に気づき、これを絶たねばならない。

 ではどうすれば退路を絶つことができるのか。サイクリングのように物質的に自らを隔離することができるものならば退路を絶つことは容易である。しかし読書やアウトプットなどはやらなくても生きていけるので退路を絶つ方法を考えるのは難しい。この場合どのようにすればよいのだろうか。

 努力をするものや人に応じて安全地帯となるものは異なっている。たとえば読書であるならば家でもできる、すなわちほかの快楽に手を染めることができることである。この場合、退路を絶つには快楽となるものを断ち切ればよい。すなわち図書館に行ったり、スマートフォンなどを誰かに預けてもらったりすることによって退路を絶てばよいのである。このように「自分の退路は何か」を分析し、それに応じてどのように断ち切っていくかを考えるとよい。

<まとめ>

 以上のことから次のことが言える。本気になるには「命に係わる」、「生活が懸かっている」、「尊厳を失ってしまう」というようなやらないことによって生じる明らかな負のイメージを想起しなければならない。これに加えて、私たちには退路が用意されているため、自分でそれを分析し、断ち切る必要がある。この二つのことができれば人は誰でも本気になれると考える。まずは「帰れま10」からはじめてみよう。