自由について語るだけ

<自由と感じる瞬間・そうでない瞬間>

 自由と感じる瞬間は年を重ねるたびに増えてきたと感じる。例えば、中学までは門限について非常に厳しく言われていたが、高校ではそれがなくなった。このとき、夜の時間を自由に使ってもよいという一種の自由を実感した。またある時は自分のクレジットカードを作った時にも感じた。これからは自分の意思でお金のやり取りができると思い、この瞬間、私は自由になれたと思った。
 その一方で一見すると自由であるように思われるが、実際は自由でないという経験もしたことがある。例えば、私は空腹感を覚えた時に様々な店を選ぶ自由を持っているように見。しかし、どの選択をとろうにせよ、それは広告などの他人の評価に依存したものであり、本質的な自由とは程遠い。このように、自由とみなされているものの中には実は自由とは言えないものも存在する。
 この2つを区別するものはなんだろうか。この問いに答えることは自由たるものは何かについて理解するために重要である。本記事では著名な文章にみられる自由の使用例から出発し、自由の本質やその必要性について考察する。

<自由とは何だろうか?-大切なのは責任と勇気―>

 そもそも自由とは何だろうか。これを知るには実際にどのような場面で自由という語が使われているかを調べるのが早い。この項では自由について記述されている文章の中でもっとも有名なフランス人権宣言について考えていく。
 フランス人権宣言の中で自由は「他人に害をなさないすべてのことを為しうることである」と定義されている。このフレーズは自由とは自分の意見、行動が何人にも邪魔されない状態であるということを意味している。逆に言えば、自分が何かしらの強い影響(上司の命令・広告宣伝など)を受けている場合は自分の考えや行動が制限されている場合であるため、自由であるとはいえない。こういうわけで、「邪魔をされているか?」が自由であるかを判断するうえで重要な要素となるのである。
 それでは「何者にも邪魔をされない状況」とはどのようなものなのだろうか。これは、自分の意見が何物にも依存していないことを指す。例えば、自転車を買おうとしたときに自分で何も調べずに店員の意見を聞いて購入するのは、自由意思で決定しているとは言えない。このとき、彼は決断の多くを店員に依存している。すなわち、彼の思考の自由は店員によって妨げられているのである。このように、自由であるということ何者にも依存していないことを指し、それは自分の意思決定が独立してなされていることに等しいのである。
 ここで「独立した意思決定」という言葉が出てきた。この言葉は自由になるために必要なものとは何かを私たちに教えてくれる。独立するためには自分の行動に責任を持つことが求められる。なぜなら何物にも依存しないため、自分の行動によって生じた結果は自分自身で対処しなくてはならないからである。したがって、自由であるためには責任感が必要である。また、独立するーつまり何者にも依存しないで生きるーためには孤独になれる必要がある。前の記事でも述べたが、孤独になれるためにはゆるぎない自信と勇気を持たなくてはならない。したがって自由になるためには勇気も必要になる。
 以上のことから次のことが言える。人権宣言にあるように、自由とは何物にも思考や行動が妨げられないーすなわち、何物にも依存しないーことを指す。そのため、自由になるためには自分の行動の結果に対する責任感と、独りの状態で意思決定を為すことのできる勇気が必要になる。憲法のもと日本国民はみな自由であるとされているが、本当の意味で自由になるためにはある程度の準備が必要なのである。

<なぜ「自由たれ」なのか>

 自由の定義について考えてきたところで、次はなぜ社会が自由であることを求めているかについて考えていく。憲法の中で、国民は自由であると記述されている。これは自由でない国民存在を考慮していない、すなわち国民は自由でなくてはならないと言っているに等しい。つまり社会は自由人であることを命じているのである。これはいったいなぜだろうか?この項では自由でなくてはならない理由について考察していく。
 社会は基本的に独立した人間しか入ることが許されない。なぜなら、自分の行動のすべてに責任を問うことができなくては、社会の秩序が崩壊してしまうからである。もし誰もが自分の行動に責任を負わなくなったらどうなるのだろうか。この場合、たとえ違法行為を犯したとしても加害者は行動の結果に責任を負う必要がないため、どんな刑罰も受けることは無い。したがって泥棒や殺人が横行する、不健全な社会になる。こうなってしまうともはや国家の統制どころかの問題ではない。家族崩壊ならぬ社会崩壊が起こってしまうのである。したがって、社会は自分自身を成り立たせるうえでも人々に独立したーつまり自由であるー人間たれと命じているのである。
 社会が人々に自由であることを命じるのは、人々を誰かの奴隷になることを防ぐためでもある。もしあなたが自由でなければどうなるのだろうか。自分で意思決定をしない(またはする努力をしない)ため多くの場合、人の意見に流されることになる。先述の自転車屋の例だと、店員がすすめるように自転車本体だけでなく、おすすめのサイクリングウェアなども買ってしまう。この場合、彼は自転車屋の奴隷になっているだけではない。彼は多くを他人の意見に依存しているため、言われるままに買い物をする。すると彼の所持金は見る見るうちに減っていく。彼はまた買い物をするためにより「頑張って」働こうとする。その結果、かなえられるはずもない「昇給」の幻想を追い求めて自分自身に鞭をふるうようになる。この姿はまさに欧米列強の植民地で働かされた奴隷に他ならない。彼は勤め先の奴隷にもなっているのである。このように、自由人でなくなることは奴隷になることを意味する。社会は奴隷的処遇がいかに酷いものであるかを知っているため、誰人も奴隷になることを望まない。それゆえ、警告の意味も込めて人々に「自由であれ」と命じているのである。

<どうすれば自由になれるのかー重要なものは自分で調べ、考えてみるー>
 
 ここまで自由の定義、なぜ自由であるべきかについて論じてきた。社会に出るためには自由である理由はもうわかった。ならば次に問題となるには「どうすれば自由になれるのか」ということである。自由の定義の項で私は勇気と責任をもつことが自由になるために必要な要素だと述べた。この項ではどうすればこの二つをみにつけ、自由人になれるかについて述べていく。
 責任をもつためには自分で選択する経験を多く持てばよい。なぜなら、そこでなされた選択には自分以外の何者も関与していないからである。ここで注意しなくてはならないのが「~すべきだという意見を求めようとしない」ことである。このような質問をしたとたんに、あなたの選択は自由でなくなるからである。例えば、自転車を買おうとしたときに親に「電動自転車と普通の自転車のどちらを買うべきか」と助言を求めたとしよう。すると親は子供の体力を考えて「電動自転車にするべきだわ」と返す。助言を受けた子供は言われたとおりに電動自転車を買った。これは彼自身の選択といえるだろうか?彼は自分の選択のほとんどを親に任せたため、責任感を持ちにくい。つまり、電動自転車のメンテナンスが面倒なことに気づいたときに真っ先に私のせいではない、買わせた親が悪いと責任を押し付けようとしやすい。そのため、彼は自由人からかけ離れていってしまうのである。このように「べきだ」という意見を求めてしまうと自分の選択の責任が不明瞭になるため、責任感を持つ経験を得られにくくなる。それゆえ、求めようとしないことが賢明である。
 それでも「べきだ」という意見を不意に言われることは多い。このような場合どうすればよいのだろうか?ここで重要なのが「なぜこの意見を言ったのか?」という背景を考えることである。言われた理由や背景がわかれば、その意見に納得し、自分の意思で意見を選択することができるからである。先ほどの例で、子供が親に「なぜ電動自転車なのか」と質問したとしよう。すると親は子供の体力がないことや通学距離を考えると、普通自転車よりも電動の方が適当だからと答える。ここで子供は初めて親の意見に納得する。そしてデメリットとメリットを評価することで最終的な判断を下すことができる。この段階での子供はもはや親の言いなりではない。親の意見を参考程度にとどめ、あくまでも自分の意思で選択している。したがって自分の選択について何らかの不利益が出たとしても「それは自分の責任だ」と考えることができる。彼は助言を選択に変化させることで、自分を自由人に一歩近づけさせたのである。
 では、もう一つの条件である「勇気」はどのように身につければよいのだろうか。これはストレスのかかる選択を何回も経験することで身につく。ここでいうストレスのかかる選択とは「結果が不明瞭でどうなるか誰にもわからない」選択である。例えば、自分の志望大学や研究室の配属先を決める場合である。将来という極めて不明瞭なものに対して決断するため、非常にストレスがかかる。このとき、選択に必要なのは勇気である。「やってみよう」という一握りの勇気を出して初めて志望先を選ぶことができる。勇気ある人とはこのような選択を躊躇なく行う人のことである。したがって、勇気を持つには結果の分からない選択を何度も経験し、勇気を持つことが迫られる状況になれることが重要である。

<まとめー勝者は自由人に限られるー>

 以上のように、自由の定義やそうなるべき理由、自由になる方法について述べてきた。思考を誰にも邪魔されない状態こそ自由であり、これは奴隷的苦役から身を守るために必要である。また自由たるには勇気や責任感が必要である。
 自由であることは勝者の必須条件でもある。これは敗者と呼ばれる人が総じて自由でないことをみるとわかりやすい。彼らは自分の選択の責任を他人に押し付け、選択の意義について考えることをしない。だから自分にとっての最善の一手を考えることやそれを実行することができない。ゆえに敗者なのである。敗者は精神から敗者なのである。逆に、商社はこの逆を行う。自分にとっての最善策を自力で考え、自分で選択し、実行する。だから事業や研究に懸命に取り組むことができ、勝者になれるのである。自由であることは人生の成功にも直結しているのである。
 自由であるためには責任が伴う。それだけでなく、勇気も求められる。社会が求める自由は決して楽に得られるものではない。しかし、自由人になったその暁には、成功者としての人生が待っているのだろう。私も自由人の仲間入りをして、その道に合流する所存である。あなたにも是非、この大きな流れにぜひ乗ってほしいと思う。

 
 
 
 

怠惰な人が本気を出す条件

<私と松島チャレンジー限界を超えてー>

 怠け者でも本気でやるときがある。先日、おのれの限界に挑もうと仙台市内から松島までの往復40キロにわたるサイクリングを実行した。普段は予定を建てないしょせん怠け者の私だが、いざチャレンジとなると「死ぬ気」でこぎ続けることができた。帰り道は太ももが悲鳴を上げていたのにもかかわらず、底力で無事家までたどり着くことに成功した。まるで何かに急き立てられたかのように、私は無心で漕いでいた。

 普段の怠け者の私が、なぜこの時ばかりはおのれの限界を超えてこぐことができたのだろうか。何も心に思うことがなければ、途中で休憩をはさんだり、現地で止まることだってできたはずである。しかし、あえてそのような楽な道を選ばずに進み続けるという苦の道選んだのはなぜなのだろうか。先の段落で述べた急き立てる力とはどのようなものなのだろうか。この項では「本気になる条件」としていかなる場合に人は底力を発揮することができるのかについて考えていこうと思う。

<本気になる条件その1-あからさまのネガティブ・イメージを持つ>

 私は家を出る前に家族と19時までには帰るという約束をしていた。この約束は私の松島チャレンジの原動力になった。そのため、険しい坂道や長く平坦な道路でもこぎ続けることができた。このとき、私は心配させてしまってはいけないという一心で漕いでいた。もし家族に心配されてしまっては、帰ってから長々しい説教を受けることが目に見えていたからである。私もそうだが、愚痴に近いような説教を進んで受けようとする人はいない。この「説教を受けたくない」というネガティブイメージによって、私は仙台までの長い道のりを走ることができた。

 このように「明確に負のイメージを持つ」ことは本気になるうえでの重要な要素である。ともすればこれは成功するイメージをもつことよりも効果的である。例えば、A大学に受かったら進路の選択肢が増えるし、研究もしやすいから入ろうと思って努力しても、結局未来の自分の快楽がわからないわけなのだから、それを投げ捨ててしまう。このような経験をしたことのある人は多いのではなかろうか。人は目先の利益に注意を向けやすく、逆に未来の利益に向かって努力するのは相当な労力を有する。そのため、目先の利益が良いと思ったのなら長期的な利益を放棄してでもそれを取ろうとする。したがって、プラスの発想から始める努力はなかなか本気で取り組むことにつながりにくい。一方で、マイナスに落ちると考えた時は、そこから抜け出さないと生きていけないわけなのだから比較的本気になりやすい。今回の例では、説教という耳の痛いイベントを何とか阻止したいという思いが非常に強かったため、松島―仙台間の往復を成功することができた。このように、明確なマイナスイメージは自分を本気へと駆り立てやすい。

 マイナスイメージは人を本気にさせる。「これをやらないと人間のクズとみなされる」、「ここで逃げては生涯臆病者と馬鹿にされる」とおいうことを考えて物事に挑むと、夏休みの宿題を締め切り直前になってようやく取り組む子供のように本気になって努力することができるようになるのではないか。

<本気になる条件その2-退路を絶てー>

 私が挑戦した松島は家のある仙台市内からはるかに遠く、なかなか迎えに雇用にも難しいような場所である。また、私は自転車でやってきたため、電車やバス、タクシーを使って楽に変えることが難しかった。さらに、松島やその道中で寝泊まりできるような金や道具も用意していなかったので、「こがなければ野外に取り残されてしまう」という命の危険を感じていた。このように私は松島へ行くとき多くの退路を絶っており、それが本気を出すことへとつながっていった。

 逆に言うと人間が本気を出せないのは多くの退路を持っているからである。そこら辺の一般の人が「本気出してやる」といったところでほとんどの人は本気を出さない。なぜならばたとえ失敗しても大きくマイナスになることが少ないからである。例えば歌をうまく歌えるようにするために歌の練習をするとしよう。この場合、仮に歌がうまくなくても彼の生活に何らかの影響が及ぶわけではない。いいかえれば別に練習しなくても大きなマイナスになることはないのである。先に述べたように人間は目先の利益ばかり着目する。そのため「別の悪い影響が出ないのであれば、今辛い練習をするよりかは遊んで楽をしたい」と思い、大抵の場合は練習しない。このように退路がある限りは本気になることはまず不可能なのだ。

 さらに恐ろしいことに現代人のほとんどは少なくとも何かしらの退路を常に持ち続けなければいけない運命にある。現代日本はどのような人も生きていけるようなシステムを持っている。逆に言えばどんなに置きこまれた状況であっても何らかの退路が用意されているというわけである。それゆえ、多くの人は自分のふがいなさに絶望する前まで、自分が持つありとあらゆる退路に逃げ続けることができる。そのため、意識的に退路に気づき、これを絶たねばならない。

 ではどうすれば退路を絶つことができるのか。サイクリングのように物質的に自らを隔離することができるものならば退路を絶つことは容易である。しかし読書やアウトプットなどはやらなくても生きていけるので退路を絶つ方法を考えるのは難しい。この場合どのようにすればよいのだろうか。

 努力をするものや人に応じて安全地帯となるものは異なっている。たとえば読書であるならば家でもできる、すなわちほかの快楽に手を染めることができることである。この場合、退路を絶つには快楽となるものを断ち切ればよい。すなわち図書館に行ったり、スマートフォンなどを誰かに預けてもらったりすることによって退路を絶てばよいのである。このように「自分の退路は何か」を分析し、それに応じてどのように断ち切っていくかを考えるとよい。

<まとめ>

 以上のことから次のことが言える。本気になるには「命に係わる」、「生活が懸かっている」、「尊厳を失ってしまう」というようなやらないことによって生じる明らかな負のイメージを想起しなければならない。これに加えて、私たちには退路が用意されているため、自分でそれを分析し、断ち切る必要がある。この二つのことができれば人は誰でも本気になれると考える。まずは「帰れま10」からはじめてみよう。

 
 

コミュ障を克服するために必要なこと

<私とコミュ障>

 コミュ障は私と切っても切り離せない関係にある。幼いころから私は人見知りの傾向であった。知らない人と話すことはもちろん、同級生でも話したことのない人と話す時は相当臆病になっていた。さらに致命的なことに私は話したい話題を提供することが苦手であった。勇気をもって話しかけたとしても話が続かず、お互い気まずい雰囲気になることが多かった。

 このように私はコミュ障であった。私自身もこのコミュ障を直そうと考えていた。そこで、なぜ治すことができないのか、何をすれば治すことができるのかについて考察した。本記事ではこれらについての考察を述べていきたいと思う。

<コミュ障の原因は経験値>

 コミュ障の原因は行きつくところ「なぜ話すことができないのか」という疑問にたどり着く。話すという基本的なことができているのであれば、おのずと人と話せるためコミュ障から抜け出せるはずである。そこで、この項ではなぜ話せないのかについて考察する。

 話せない原因は話した経験が非常に少ないことに起因する。ここでいう話す経験とは、自ら人と話しかけて会話をしようとした経験のことを指す。経験がなければ、当然人と話すことは困難を極める。試験を例に考えてみるとわかりやすい。試験でいい成績をとるには試験の分野の問題を解く経験を多く積むことが求められる。もしあなたが問題を一問も解かないで試験に臨んだのであれば、経験が不足している以上良い成績をとることが難しいのは明白である。自分から話す経験をもたないで話すのは、レベル1の状態でトレーナーと戦うことと同じくらい、無謀で困難を極める行為である。逆に言えば、よいコミュニケーションをとるには経験を積むことが重要である。

 ここでさらに一歩踏み込んで、なぜ話す経験を得られないのかについて考えてみる。見知らぬ人に話すという行為は、それまで自分が知っておる人間関係の領域から一歩踏み出す行為である。それゆえ、相当な勇気が要求される。これは自分自身に変化を要求するため、非常に大きなストレスがかかるからである。例えばバンジージャンプは安全地帯から崖の下へと自分の居場所を変化させる必要がある。そのため、安全地帯から抜けるという変化を受け入れる必要がある。自ら話しかける行為は、まさに安全地帯(既存の人間関係)から崖の下(未知の人との関係)へ移ることでもある。このように考えると、話す経験を得ることができないのは、勇気を持っていないからだということがわかる。つまり、コミュ障を直すためには胆力を鍛え、勇気を持つことが重要である。

<ではどのようにして解決するべきなのか?>

 以上のように考えるとコミュ障を直すために必要なことは、メンタルを鍛え、経験を積むことであると考えられる。それでは、この2つを実行するためにはなにをすべきなのだろうか。この項ではその問いについて考察を行っていく。

 勇気を鍛える方法としては、メンタルに負荷のかかる行為を常日頃から選択するのが最適である。メンタルに負荷をかけることで、変化に慣れてそれを受け入れる勇気を養うことができる。例として、あなたが本を買いに本屋に酔ったときについて考えてみよう。あなたは次の2種類の本のうち1冊を選ぶことができる。1冊目は自分が大学で研究した分野に関する本であり、もう1冊は自分が全く学んだことのないような分野の本である。もしいつものあなたであれば、楽な選択肢である前者の方を選択するであろう。しかし、コミュ障を直そうとメンタルを鍛えようとしているあなたであるならば、あえて後者の方を選ばなくてはならない。後者の方はなじみがないため読むことに大きな抵抗感を抱きやすい。しかし、この本を選ぶことによって自分の領域の外から出て新たな知識を得ることできる。これはまさに勇気を得るために必要なプロセスに一致している。このように日常の些細な選択から、自分のメンタルに負荷のかかる方を選び取ることが重要である。

 勇気を鍛えたら、あとはひたすら場数を踏めばよい。ここで注意しなくてはならないのは、あまり話したことのない人とのコミュニケーションを積極的に図らなければならないということである。これはコミュ障を直す目的を考えれば自明である。あまり話したことのない人と話せるようになるには、当然見知らぬ人と話す経験を多く積まなくてはならない。とすれば、鍛えた勇気をもって知らない人とのコンタクトをとることをしなくてはならないのは明白である。

<まとめ>

 コミュ障は勇気と場数さえ踏めれば誰でも治すことができる。そのためには以上に述べたようなことを実践する根性がなくてはならない。「論語読みの論語知らず」という言葉に代表されるように、知っているだけでは理解しているとは言えない。ぜひ実践に移し、コミュニケーション能力の解消に励んでほしい。